カテゴリー [ 「虚業教団」 関谷晧元 ]
- 虚業教団 もくじ [2009/12/14]
- はしがき [2009/12/14]
- 1-1 大川青年との最初の出会い [2009/12/14]
- 1-2 六畳ひと間の事務所からのスタート [2009/12/14]
- 1-3 八六年十一月 ── 発足記念座談会 [2009/12/14]
- 1-4 仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む [2009/12/14]
- 1-5 真摯だった発足記念講演会 [2009/12/14]
- 1-6 〈幸福の科学〉に集う純真な求道心 [2009/12/14]
- 2-1 〈幸福の科学〉にもあった神託結婚 [2009/12/14]
- 2-2 天上界が計画した? 二つの結婚 [2009/12/14]
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虚業教団 もくじ
2009/12/14 06:04 Category:「虚業教団」 関谷晧元
虚業教団 〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか
関谷晧元 著 初版1993年12月31日/発行所-現代書林


[帯] もと創立大幹部が赤裸々に語る、驚くべき 「神託結婚」 の存在、GLAとの教義上の確執、フライデー事件の真相──、多くの宗教難民を創りだした 「裸の王様」 大川隆法の本質が、いま白日のもとに晒される。情熱!落胆!そして真の光を探る!
はしがき ── 1
目次 [8-11]
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩 ── 13
大川青年との最初の出会い 14
六畳ひと間の事務所からのスタート 22
八六年十一月 ── 発足記念座談会 27
仕事を 捨てて 〈幸福の科学〉へ飛び込む 31
真摯だった発足記念講演会 36
〈幸福の科学〉に集う純真な求道心 44
第2章 「神」は結婚を 命じたまうのか? ── 53
〈幸福の科学〉にもあった神託結婚 54
天上界が計画した? 二つの結婚 60
神を信じるのか、大川隆法を信じるのか 68
〈幸福の科学〉 は幸せを 科学したか? 73
奇妙な大川主宰との相互仲人 81
神託結婚は大川隆法の 「霊的現象」? 86
第3章 「裸の王様」への道 ── 93
「真っ黒な雲が覆いかぶさってくる」 94
大川夫人の登場と会の変質 97
大川ファミリー経営の企業 =〈幸福の科学〉 104
「生命線」 出版ルートの確保 108
「ワンマン社長」 としての大川の力量 113
第4章 愛なき教団だから「愛」を説くのか ── 117
「高橋信次」 はなぜ大川隆法に霊言したのか 118
底の浅さを思い知らされたGLAとの接触 124
GLAに対する大川主宰の異常な憎しみ 133
大事件となったある「神託結婚」の失敗 138
愛なき断罪と追放の実態144
悲しくそれぞれの道へ別れて 150
建前だけの「与える愛」 156
第5章 さらば〈幸福の科学〉よ ── 163
紀尾井町ビルへの入居契約が最後の奉公 164
「光の天使」から「光の戦士」への変質 171
必然的だったフライデー事件への道 176
これがフライデー事件の真相だ 181
〈幸福の科学〉との決別 191
おわりに ── 194
添付資料 「幸福の科学」との6年越し裁判に勝訴した“元幹部”
さしえ画像はカナダのナンシーさんが加工されたものを使用させていただいています。本文は、当方で原物と照合しており、脱字・誤字などを修正しています。
追記:リンクに一つ不具合があるのに長いこと気づいていませんでした。申し訳ありません。誤字等も含めて何かまだミスがあれば、それぞれのコメント欄にてお知らせください。随時、修正します。
2013/02/23 UMAさまからご指摘をいただき、各所の誤字等訂正をしました。とても助かりました。/また載せていない挿絵画像があるのに気づき、追加しました。
CM(2)
虚業教団 〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか
関谷晧元 著 初版1993年12月31日/発行所-現代書林


[帯] もと創立大幹部が赤裸々に語る、驚くべき 「神託結婚」 の存在、GLAとの教義上の確執、フライデー事件の真相──、多くの宗教難民を創りだした 「裸の王様」 大川隆法の本質が、いま白日のもとに晒される。情熱!落胆!そして真の光を探る!
はしがき ── 1
目次 [8-11]
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩 ── 13
大川青年との最初の出会い 14
六畳ひと間の事務所からのスタート 22
八六年十一月 ── 発足記念座談会 27
仕事を 捨てて 〈幸福の科学〉へ飛び込む 31
真摯だった発足記念講演会 36
〈幸福の科学〉に集う純真な求道心 44
第2章 「神」は結婚を 命じたまうのか? ── 53
〈幸福の科学〉にもあった神託結婚 54
天上界が計画した? 二つの結婚 60
神を信じるのか、大川隆法を信じるのか 68
〈幸福の科学〉 は幸せを 科学したか? 73
奇妙な大川主宰との相互仲人 81
神託結婚は大川隆法の 「霊的現象」? 86
第3章 「裸の王様」への道 ── 93
「真っ黒な雲が覆いかぶさってくる」 94
大川夫人の登場と会の変質 97
大川ファミリー経営の企業 =〈幸福の科学〉 104
「生命線」 出版ルートの確保 108
「ワンマン社長」 としての大川の力量 113
第4章 愛なき教団だから「愛」を説くのか ── 117
「高橋信次」 はなぜ大川隆法に霊言したのか 118
底の浅さを思い知らされたGLAとの接触 124
GLAに対する大川主宰の異常な憎しみ 133
大事件となったある「神託結婚」の失敗 138
愛なき断罪と追放の実態144
悲しくそれぞれの道へ別れて 150
建前だけの「与える愛」 156
第5章 さらば〈幸福の科学〉よ ── 163
紀尾井町ビルへの入居契約が最後の奉公 164
「光の天使」から「光の戦士」への変質 171
必然的だったフライデー事件への道 176
これがフライデー事件の真相だ 181
〈幸福の科学〉との決別 191
おわりに ── 194
添付資料 「幸福の科学」との6年越し裁判に勝訴した“元幹部”
さしえ画像はカナダのナンシーさんが加工されたものを使用させていただいています。本文は、当方で原物と照合しており、脱字・誤字などを修正しています。
追記:リンクに一つ不具合があるのに長いこと気づいていませんでした。申し訳ありません。誤字等も含めて何かまだミスがあれば、それぞれのコメント欄にてお知らせください。随時、修正します。
2013/02/23 UMAさまからご指摘をいただき、各所の誤字等訂正をしました。とても助かりました。/また載せていない挿絵画像があるのに気づき、追加しました。
CM(2)
はしがき
2009/12/14 06:05 Category:「虚業教団」 関谷晧元
虚業教団 〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか
関谷皓元 著 初版1993年12月31日/発行所-現代書林
はしがき
コウフクノカガク。
この不思議な名前に、人は何を思い浮かべるだろうか。
講談社へのファックス攻撃で、教団の名を一躍世に知らしめたフライデー事件。
ハンドマイクを握り、絶叫する小川知子や景山民夫の勇姿。
大手広告代理店・電通が制作し、繰り返し茶の間に流れたCM ──「時代は今、幸福の科学」をおぽえている方も多いと思う。
それとも、一九九一年七月十五日東京ドームで催された "御生誕記念祭" だろうか。集まった五万人のド肝を抜いた、主宰・大川隆法の 「星の王子さま」や「冒険ダン吉」を思わせる異様ないでたちや、おかしな抑揚をつけた演説だろうか。
しかし私たちは、誰一人そういうものを望んで〈幸福の科学〉を設立したわけではなかった。たぶん、大川隆法その人にしても。
コウフクノカガク。
元会員の胸には、さまざまな思いが去来するはずだ。去ることになった理由は何であっても、この名前に一度は夢をみた。それは確かなのだから。
いま、私の胸に一つの苦い問いがある。
── 宗教に団体は必要なのか!?
神と共に生きるのには、組織が必要なのか。一人では、神の望む生活は不可能なのか。教団に入らなければ、幸福は科学できないのか。
断じて、否である。
むしろ団体が、組織が、人を神から遠ざける。 そんな場面を、私は 〈幸福の科学〉 という神理探究の集団に幾度となく見てきた。
"これでいいのか!"
そのたびに、心がかきむしられた。
私は一人になって静かにまわりを見まわす。
素晴らしい人たちが身近にたくさんいる。宗教を知らなくても、明るく優しく、暖かく、協調性に富んだ人々。健全で、力強く、楽しい人々。私たちが必死で追い求めた宗教の理想を、彼らは易々と実現しているように見える。
どんな教団にも属さず、理屈を振りかざすこともなく、職場で、あるいは家庭で、精一杯生き生きと暮らしている。
この人たちこそ、神のみこころの実践者ではないのか。
そのことを知るために、私は一つの教団を通過してきたのかもしれない。
私にとって 〈幸福の科学〉 は一つの通過点であった。だから卒業の時がやってきた。
「そんなことを言うおまえは誰か」と、読者は問うだろうか ──。
私は一九八六年〈幸福の科学〉発足以前から学習会の基礎造りに人生を懸けてきた男である。 順調な仕事を閉鎖し、自社ビルを処分し、家族との辛い別れを体験しながらも、すべてを捨てて打ち込んできた者である。
そのあいだには、教団の最重要ポストを幾つも歴任してきた。
組織として形が整う前は、活動推進委員として基盤造りに励んだ。会が動き出すと、秘書課長として大川隆法に密着。その私生活にも深くかかわった。大川隆法・恭子夫妻の仲人もしている。
初代総務局長としての華々しい武勲もいくつかある。幹部人事を担当し、資金計画を立て、出版ルートを開拓した。他教団との折衝も手がけた。あの紀尾井町ビルヘの入居も、それを発案し、折衝し、勝ち取ったのは私である。
本部講師となり、会の基本原理である 「四正道」 を解説して全国を巡回した。
あの頃にあった草創期の熱気 ―─。
いま思い出しても、自然と熱いものがこみあげてくる。文字通りゼロからの出発。 情熱の奔流に身を任せ、しゃにむに舟を漕ぎつづけた。そして、小さな舟が堂々たる大型船になったとき、伸び盛りのこの会を私は "卒業"した。
一九八九年十月のことである。
決別の日から、早くも四年が過ぎようとしている。
その後、さらに会は大きく発展した。会員は急速に膨張し、その数は五〇〇万人とも七〇〇万人とも言われるほどになった。しかしその半数、いや九割以上はすでに脱会していると聞く。
いま脱会者の多くは宗教難民となって、心をさまよわせている。何かを求め、 辿り着くべきところを懸命に探しつづけているに違いない。私には、その思いが痛いほどよくわかる。一度宗教に夢を託した人間の宿命である。
四年の歳月は、過去を冷静に振り返る余裕を私に与えてくれた。客観的な目で、ようやく会を見ることができるようになった。今こそ、〈幸福の科学〉の設立から脱会に至るまでの魂の遍歴を、率直に語ろうと思う。
いま、しみじみ思うことは、宗教団体に身を置いて学習する以上の、神理探究法、自己変容の道の存在を強く感じていることである。
しかし、それを語ろうとする時、どうしても一度は、今までの過程・事実について是非を問い、中立公平な第三者の立場に戻らねばならない。
この書は、その意味で私自身の点検書でもある。
最初にお断りしておきたいのは、私は〈幸福の科学〉のすべてを非難するつもりなど毛頭ない、ということである。
その教義内容は、たとえ世間の有識者が何と言おうと、良いことを言っているのだし、また「霊性時代の樹立」 「偉大なる常識人」というスローガンも、時節柄を鑑みて思うに的を得ていると賛同している。
ただ問題なのは、その本来の素晴らしい教えが、〈教団〉 という形に形勢されていく途中のどこかで、天の御心にあるまじき形態に、 内容が変化してしまうことである。
僅か数十人、数百人の天使の集いだったものが、飛躍するうちに 「虚業教団」 になっていく。言っていることと、やっていることにどうしてもズレが出てくる。
宗教教団とは魔物であり、多くの場合には虚業でもある。その意味では大川隆法や善川三朗も私達同様に、大きな魔物に振り回された被害者なのだろう。
人によっては、〈幸福の科学〉 と大川隆法の未知の部分の暴露本だろうから、思いきり悪く書いてくれるだろうとの "期待" もあった。しかし誹膀中傷は、私たち求道者の本意であるはずがない。
体験した事実を事実として、ありのままにストレートに書いた。
どのように受け止めるかは、読んでくださる方々の心境に委ねるしかない。そう思うと、何の力みもなく安心して書き上げることができた。
事実は小説よりも奇なり、という。読み方によっては、本書は三面記事的な面白い読み物にもなるだろう。また、別の受け止め方をすれば、理論理屈の本より、いっそう深い神理を本書からくみ取っていただけるものと信じる。
コウフクノカガク …… それは、私たちの夢と挫折の物語である。
一九九三年九月 関谷 皓元
本書に登場する人物の名前は敬称を略し、
〈幸福の科学〉会員の名はすべて仮名とします。
もくじ 【詳細】
はしがき
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
第2章 「神」は結婚を 命じたまうのか?
第3章 「裸の王様」への道
第4章 愛なき教団だから愛を説くのか
第5章 さらば〈幸福の科学〉よ
おわりに
CM(0)
虚業教団 〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか
関谷皓元 著 初版1993年12月31日/発行所-現代書林
はしがき
コウフクノカガク。
この不思議な名前に、人は何を思い浮かべるだろうか。
講談社へのファックス攻撃で、教団の名を一躍世に知らしめたフライデー事件。
ハンドマイクを握り、絶叫する小川知子や景山民夫の勇姿。
大手広告代理店・電通が制作し、繰り返し茶の間に流れたCM ──「時代は今、幸福の科学」をおぽえている方も多いと思う。
それとも、一九九一年七月十五日東京ドームで催された "御生誕記念祭" だろうか。集まった五万人のド肝を抜いた、主宰・大川隆法の 「星の王子さま」や「冒険ダン吉」を思わせる異様ないでたちや、おかしな抑揚をつけた演説だろうか。
しかし私たちは、誰一人そういうものを望んで〈幸福の科学〉を設立したわけではなかった。たぶん、大川隆法その人にしても。
コウフクノカガク。
元会員の胸には、さまざまな思いが去来するはずだ。去ることになった理由は何であっても、この名前に一度は夢をみた。それは確かなのだから。
いま、私の胸に一つの苦い問いがある。
── 宗教に団体は必要なのか!?
神と共に生きるのには、組織が必要なのか。一人では、神の望む生活は不可能なのか。教団に入らなければ、幸福は科学できないのか。
断じて、否である。
むしろ団体が、組織が、人を神から遠ざける。 そんな場面を、私は 〈幸福の科学〉 という神理探究の集団に幾度となく見てきた。
"これでいいのか!"
そのたびに、心がかきむしられた。
私は一人になって静かにまわりを見まわす。
素晴らしい人たちが身近にたくさんいる。宗教を知らなくても、明るく優しく、暖かく、協調性に富んだ人々。健全で、力強く、楽しい人々。私たちが必死で追い求めた宗教の理想を、彼らは易々と実現しているように見える。
どんな教団にも属さず、理屈を振りかざすこともなく、職場で、あるいは家庭で、精一杯生き生きと暮らしている。
この人たちこそ、神のみこころの実践者ではないのか。
そのことを知るために、私は一つの教団を通過してきたのかもしれない。
私にとって 〈幸福の科学〉 は一つの通過点であった。だから卒業の時がやってきた。
「そんなことを言うおまえは誰か」と、読者は問うだろうか ──。
私は一九八六年〈幸福の科学〉発足以前から学習会の基礎造りに人生を懸けてきた男である。 順調な仕事を閉鎖し、自社ビルを処分し、家族との辛い別れを体験しながらも、すべてを捨てて打ち込んできた者である。
そのあいだには、教団の最重要ポストを幾つも歴任してきた。
組織として形が整う前は、活動推進委員として基盤造りに励んだ。会が動き出すと、秘書課長として大川隆法に密着。その私生活にも深くかかわった。大川隆法・恭子夫妻の仲人もしている。
初代総務局長としての華々しい武勲もいくつかある。幹部人事を担当し、資金計画を立て、出版ルートを開拓した。他教団との折衝も手がけた。あの紀尾井町ビルヘの入居も、それを発案し、折衝し、勝ち取ったのは私である。
本部講師となり、会の基本原理である 「四正道」 を解説して全国を巡回した。
あの頃にあった草創期の熱気 ―─。
いま思い出しても、自然と熱いものがこみあげてくる。文字通りゼロからの出発。 情熱の奔流に身を任せ、しゃにむに舟を漕ぎつづけた。そして、小さな舟が堂々たる大型船になったとき、伸び盛りのこの会を私は "卒業"した。
一九八九年十月のことである。
決別の日から、早くも四年が過ぎようとしている。
その後、さらに会は大きく発展した。会員は急速に膨張し、その数は五〇〇万人とも七〇〇万人とも言われるほどになった。しかしその半数、いや九割以上はすでに脱会していると聞く。
いま脱会者の多くは宗教難民となって、心をさまよわせている。何かを求め、 辿り着くべきところを懸命に探しつづけているに違いない。私には、その思いが痛いほどよくわかる。一度宗教に夢を託した人間の宿命である。
四年の歳月は、過去を冷静に振り返る余裕を私に与えてくれた。客観的な目で、ようやく会を見ることができるようになった。今こそ、〈幸福の科学〉の設立から脱会に至るまでの魂の遍歴を、率直に語ろうと思う。
いま、しみじみ思うことは、宗教団体に身を置いて学習する以上の、神理探究法、自己変容の道の存在を強く感じていることである。
しかし、それを語ろうとする時、どうしても一度は、今までの過程・事実について是非を問い、中立公平な第三者の立場に戻らねばならない。
この書は、その意味で私自身の点検書でもある。
最初にお断りしておきたいのは、私は〈幸福の科学〉のすべてを非難するつもりなど毛頭ない、ということである。
その教義内容は、たとえ世間の有識者が何と言おうと、良いことを言っているのだし、また「霊性時代の樹立」 「偉大なる常識人」というスローガンも、時節柄を鑑みて思うに的を得ていると賛同している。
ただ問題なのは、その本来の素晴らしい教えが、〈教団〉 という形に形勢されていく途中のどこかで、天の御心にあるまじき形態に、 内容が変化してしまうことである。
僅か数十人、数百人の天使の集いだったものが、飛躍するうちに 「虚業教団」 になっていく。言っていることと、やっていることにどうしてもズレが出てくる。
宗教教団とは魔物であり、多くの場合には虚業でもある。その意味では大川隆法や善川三朗も私達同様に、大きな魔物に振り回された被害者なのだろう。
人によっては、〈幸福の科学〉 と大川隆法の未知の部分の暴露本だろうから、思いきり悪く書いてくれるだろうとの "期待" もあった。しかし誹膀中傷は、私たち求道者の本意であるはずがない。
体験した事実を事実として、ありのままにストレートに書いた。
どのように受け止めるかは、読んでくださる方々の心境に委ねるしかない。そう思うと、何の力みもなく安心して書き上げることができた。
事実は小説よりも奇なり、という。読み方によっては、本書は三面記事的な面白い読み物にもなるだろう。また、別の受け止め方をすれば、理論理屈の本より、いっそう深い神理を本書からくみ取っていただけるものと信じる。
コウフクノカガク …… それは、私たちの夢と挫折の物語である。
一九九三年九月 関谷 皓元
本書に登場する人物の名前は敬称を略し、
〈幸福の科学〉会員の名はすべて仮名とします。
もくじ 【詳細】
はしがき
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
第2章 「神」は結婚を 命じたまうのか?
第3章 「裸の王様」への道
第4章 愛なき教団だから愛を説くのか
第5章 さらば〈幸福の科学〉よ
おわりに
CM(0)
1-1 大川青年との最初の出会い
2009/12/14 06:08 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
大川青年との最初の出会い
一九八九年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉 への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。
この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。
自分は 〈幸福の科学〉 を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、ともに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く、重いものだ。
それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。 妻子とも気まずく別れることになった。 主宰・大川隆法に強制されるかたちで、"神託結婚" もした。それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。
そのような会との別れは私の胸を締めつけた。
しかし一方では、晴々とした気分だった。
ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住の T さんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に似た清々しさを、私は一人噛みしめていた。
"これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう"
軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。その心をさまざまな思いが心をよぎる。
"幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれただろうか。職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか"
"碓かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか ……"
"会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか"
東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。
一ヵ月の休暇を無理やりもらってイギリスヘ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめなおすいい口実になった。遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの問いに答えを出したかったのである。
一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。
会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。 しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や 〈幸福の科学〉 が次第に見えてきた。
絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。
"私の辞表に大川先生は何を思うだろうか"
そんな思いも幾度となくわいてきた。
私と大川隆法の最初の出会い。それは三年前にさかのぽる。
──
正確な日付は忘れたが、八六年の確か四月下旬だった。
私はその日、新宿七丁目の割烹料理店「作古」の二階で、一人の青年と向き合っていた。青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。
当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』 『空海の霊言』 に登場する "霊能力者" でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。
エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。
私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。
じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。
事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。
"宗教とは、こんなにすごいものだったのか"
素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。
大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。
「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ」
彼女は常々そう言っていた。
あの頃、中原は都内に二〇ヵ所近いヨガ教室を持っていた。何冊の自著も出版されていた。この世的な成功にも、異性にも一切目をくれず、一途にヨガの修業に打ち込んでいる彼女には、何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言で言い表すなら"尼さん"が一番ピッタリかも知れない。整った顔立ちも手伝い、ヨガ教室のスタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。
中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。
だが私の目には、この小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか映らなかった。これがほんとにあの大川隆法なのか……。霊言を読み、どんなにかすごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。
私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だった I とどこか似ていた。年長者の私をさし措き、平然と上座に座るところも I を思わせた。しかしそれも、この年代としては、まあ普通のことだろう。
私も中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。
大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口に運んだ。
話の端々から、青年の頭のよさが感じられた。こういう人材を持った会社は、営業成績をぐんぐん伸ばしていけるだろうな、と私は思ったのを覚えている。長年営業畑を歩いてきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の姿を、すぐイメージすることができた。
仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事か、と 〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし、悲しいかな、これが長年の仕事によって培われた、私のカンである。
幸か不幸か、このカンは外れてはいなかったようだ。精力的な会員獲得戦略と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中したことになる。
その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然と澱みなくしゃべった。「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だったように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の青年らしいはにかみが浮かんだ。
私に失望があったとしたら、その目に "ある種の眼差し" が欠けていたことである。偉大な芸術家や霊能力者が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、大川の前に座っていても、自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じなかった。
要するに、頭のいい、平凡な青年というのが私の第一印象である。
"そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと、特大の超能力者なのだ "
そんなふうに考えてみた。"そんなはずがない。きっと……" という思いを、私はこれ以降、三年半のあいだに何十回、何百回と抱くことになった。だが、あのときはそんなことなど思いもしなかった。
やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。
「大川先生には五〇〇人もの高級霊が降りてくるんですよ」
と中原は言った。
「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」
座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。
私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのほか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体! ── この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。
大川隆法、三〇歳。中原幸枝、年齢不詳。私が五一歳。三人ともまだ若かった。
この夜から、何かが動きだしたのである。
CM(0)
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
大川青年との最初の出会い
一九八九年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉 への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。
この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。
自分は 〈幸福の科学〉 を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、ともに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く、重いものだ。
それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。 妻子とも気まずく別れることになった。 主宰・大川隆法に強制されるかたちで、"神託結婚" もした。それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。
そのような会との別れは私の胸を締めつけた。
しかし一方では、晴々とした気分だった。
ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住の T さんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に似た清々しさを、私は一人噛みしめていた。
"これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう"
軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。その心をさまざまな思いが心をよぎる。
"幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれただろうか。職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか"
"碓かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか ……"
"会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか"
東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。
一ヵ月の休暇を無理やりもらってイギリスヘ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめなおすいい口実になった。遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの問いに答えを出したかったのである。
一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。
会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。 しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や 〈幸福の科学〉 が次第に見えてきた。
絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。
"私の辞表に大川先生は何を思うだろうか"
そんな思いも幾度となくわいてきた。
私と大川隆法の最初の出会い。それは三年前にさかのぽる。
──
正確な日付は忘れたが、八六年の確か四月下旬だった。
私はその日、新宿七丁目の割烹料理店「作古」の二階で、一人の青年と向き合っていた。青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。
当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』 『空海の霊言』 に登場する "霊能力者" でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。
エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。
私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。
じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。
事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。
"宗教とは、こんなにすごいものだったのか"
素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。
大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。
「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ」
彼女は常々そう言っていた。
あの頃、中原は都内に二〇ヵ所近いヨガ教室を持っていた。何冊の自著も出版されていた。この世的な成功にも、異性にも一切目をくれず、一途にヨガの修業に打ち込んでいる彼女には、何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言で言い表すなら"尼さん"が一番ピッタリかも知れない。整った顔立ちも手伝い、ヨガ教室のスタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。
中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。
だが私の目には、この小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか映らなかった。これがほんとにあの大川隆法なのか……。霊言を読み、どんなにかすごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。
私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だった I とどこか似ていた。年長者の私をさし措き、平然と上座に座るところも I を思わせた。しかしそれも、この年代としては、まあ普通のことだろう。
私も中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。
大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口に運んだ。
話の端々から、青年の頭のよさが感じられた。こういう人材を持った会社は、営業成績をぐんぐん伸ばしていけるだろうな、と私は思ったのを覚えている。長年営業畑を歩いてきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の姿を、すぐイメージすることができた。
仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事か、と 〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし、悲しいかな、これが長年の仕事によって培われた、私のカンである。
幸か不幸か、このカンは外れてはいなかったようだ。精力的な会員獲得戦略と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中したことになる。
その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然と澱みなくしゃべった。「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だったように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の青年らしいはにかみが浮かんだ。
私に失望があったとしたら、その目に "ある種の眼差し" が欠けていたことである。偉大な芸術家や霊能力者が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、大川の前に座っていても、自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じなかった。
要するに、頭のいい、平凡な青年というのが私の第一印象である。
"そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと、特大の超能力者なのだ "
そんなふうに考えてみた。"そんなはずがない。きっと……" という思いを、私はこれ以降、三年半のあいだに何十回、何百回と抱くことになった。だが、あのときはそんなことなど思いもしなかった。
やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。
「大川先生には五〇〇人もの高級霊が降りてくるんですよ」
と中原は言った。
「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」
座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。
私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのほか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体! ── この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。
大川隆法、三〇歳。中原幸枝、年齢不詳。私が五一歳。三人ともまだ若かった。
この夜から、何かが動きだしたのである。
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1-2 六畳ひと間の事務所からのスタート
2009/12/14 06:10 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
六畳ひと間の事務所からのスタート
大川の本を読み返してみると、八六年六月に諸霊から 「会社を辞めよ」 と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。四月下旬の 「作古」での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。
中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。
「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」
彼女の声は弾んでいた。
「大川先生の案で、〈幸福の科学〉 とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」
コウフクノカガクという言葉に少し戸感ったが、即座にOKした。幸福の科学、 なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。
「今度、入会申込み書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は一八番ですよ」
「エッ、一八番? もう、そんなに大勢入ったんですか」
正直に言うと、たった一日で一〇人も二〇人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たち が大勢いたのである。 ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち一〇〇人にも膨れあがった。
今あらためて 〈幸福の科学〉 の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求めるまっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。
大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。 しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」 と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。
「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」
初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。
ここに陥穽があった。
中原や私が望んだものは、信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。私たちは学習の場をつくろうとしたのである。 大川隆法という宗教的天才を先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく 学校。 そう、学校だ。霊言や 「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。 この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ離れたものではなかっただろう。
「幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」
ハッキリと彼は断言していた。しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。 自分の写真を宗教法人〈幸福の科学〉 の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の "狂気" に道を開いたのではないか。
仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め、「これからは人を師とするのでなく、法を師とせよ」 と説かれた。慙愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。悪評を買った九一年の "御生誕祭" に、「星の王子さま」 さながらの姿で演壇に登場したエル・カンターレ。冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。
だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。
その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。すでに大川は七月半ばで トーメンを退職していた。中原家の別荘で、大川は 『正心法語』 『祈願文』 の二つを書きあげて戻ってきた。覚えやすい七五調の現代語で会の指針を説く 『正心法語』 は、今でも会の「お経」になっているはずである。
── 大宇宙に光あり 光は神の命なり
命によりて人は生き、命によりて歴史あり
命は永遠に不変なり ……
(とわ)
言葉は今でもスラスラ口をついて出る。学校の校歌みたいだと、意地の悪いことを言う人もいる。しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いたのである。
指針は示された!
誰もがワクワクしていた。特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。彼らの手で、 『正心法語』 『祈願文』 はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじされて、表紙には金色のスタンプが押された。
「手作りのこの二冊が、将来はとても価値あるものになるのね」
誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に励んだ。新しい価値を自分たちの手で創り出しているのだという感動を、みんなが共有していた。そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んでいったのである。
最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した六畳一間だった。中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。デスク代わりの小さなちゃぶ台が一つに、茶碗が五、六個。部屋の一部がカーテンで仕切られ、 そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。
そこに息苦しいほど籠もっていた若者たちの熱気を、私は懐かしく思い出す。
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第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
六畳ひと間の事務所からのスタート
大川の本を読み返してみると、八六年六月に諸霊から 「会社を辞めよ」 と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。四月下旬の 「作古」での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。
中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。
「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」
彼女の声は弾んでいた。
「大川先生の案で、〈幸福の科学〉 とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」
コウフクノカガクという言葉に少し戸感ったが、即座にOKした。幸福の科学、 なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。
「今度、入会申込み書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は一八番ですよ」
「エッ、一八番? もう、そんなに大勢入ったんですか」
正直に言うと、たった一日で一〇人も二〇人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たち が大勢いたのである。 ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち一〇〇人にも膨れあがった。
今あらためて 〈幸福の科学〉 の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求めるまっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。
大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。 しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」 と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。
「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」
初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。
ここに陥穽があった。
中原や私が望んだものは、信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。私たちは学習の場をつくろうとしたのである。 大川隆法という宗教的天才を先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく 学校。 そう、学校だ。霊言や 「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。 この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ離れたものではなかっただろう。
「幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」
ハッキリと彼は断言していた。しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。 自分の写真を宗教法人〈幸福の科学〉 の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の "狂気" に道を開いたのではないか。
仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め、「これからは人を師とするのでなく、法を師とせよ」 と説かれた。慙愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。悪評を買った九一年の "御生誕祭" に、「星の王子さま」 さながらの姿で演壇に登場したエル・カンターレ。冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。
だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。
その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。すでに大川は七月半ばで トーメンを退職していた。中原家の別荘で、大川は 『正心法語』 『祈願文』 の二つを書きあげて戻ってきた。覚えやすい七五調の現代語で会の指針を説く 『正心法語』 は、今でも会の「お経」になっているはずである。
── 大宇宙に光あり 光は神の命なり
命によりて人は生き、命によりて歴史あり
命は永遠に不変なり ……
(とわ)
言葉は今でもスラスラ口をついて出る。学校の校歌みたいだと、意地の悪いことを言う人もいる。しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いたのである。
指針は示された!
誰もがワクワクしていた。特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。彼らの手で、 『正心法語』 『祈願文』 はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじされて、表紙には金色のスタンプが押された。
「手作りのこの二冊が、将来はとても価値あるものになるのね」
誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に励んだ。新しい価値を自分たちの手で創り出しているのだという感動を、みんなが共有していた。そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んでいったのである。
最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した六畳一間だった。中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。デスク代わりの小さなちゃぶ台が一つに、茶碗が五、六個。部屋の一部がカーテンで仕切られ、 そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。
そこに息苦しいほど籠もっていた若者たちの熱気を、私は懐かしく思い出す。
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1-3 八六年十一月 ── 発足記念座談会
2009/12/14 06:11 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
八六年十一月 ── 発足記念座談会
いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。 「幸福の科学発足記念座談会」がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の 〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。
私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。
会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。
左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。
そこには、七、八〇人が集まっていた。
まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。
彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、 一つだけ強く印象に残っている言葉がある。
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」
中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。
いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。
大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。
「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから …… アッハ、ハ」
人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。
その日は、GLA 教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま) と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。
テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。
"おかしいな" と私は思った。"霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。 霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど ……"
心の中でこうつぶやいた。
"やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな"
しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。
会場には、やがて 〈幸福の科学〉 の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉 でも八九年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。
それまで "大川隆法" は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。
ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ …… 私は嬉しくてしかたなかった。
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第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
八六年十一月 ── 発足記念座談会
いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。 「幸福の科学発足記念座談会」がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の 〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。
私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。
会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。
左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。
そこには、七、八〇人が集まっていた。
まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。
彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、 一つだけ強く印象に残っている言葉がある。
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」
中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。
いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。
大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。
「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから …… アッハ、ハ」
人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。
その日は、GLA 教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま) と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。
テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。
"おかしいな" と私は思った。"霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。 霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど ……"
心の中でこうつぶやいた。
"やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな"
しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。
会場には、やがて 〈幸福の科学〉 の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉 でも八九年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。
それまで "大川隆法" は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。
ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ …… 私は嬉しくてしかたなかった。
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1-4 仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む
2009/12/14 06:12 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む
私はまだ 〈幸福の科学〉 に夢中というほどではなかった。
当時私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。一九六七年の三月三日に、ほとんど無一文でスタートしてから一九年。 一度の赤字もなく、順風満帆で伸びてきた会社である。二年前にはそれまでの借地を買い、四階建ての自社ビルも新築した。
「どうしたら、関谷さんみたいになれるかね」
仲間からはいつも羨ましがられていた。
ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだった。お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。
"次の三月三日は、二〇周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてやろう"
そう思ったとき、私の心はすでにーつの決意を秘めていた。
三月三日、二〇周年記念パーティの当日。青山ダイヤモンド・ホールで開いた祝賀会には二〇〇人もの人が集まった。その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。自動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然目も留めなかった。パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。二人がたたずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。
パーティーは愉快に楽しく進行した。琴とバイオリンの二重奏あり、木遺り歌あり。木遺り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入りもする盛り上がりだった。
最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。
「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。ところで、私にはこの人生でもう一つやってみたいことがあります。残りの人生は、それに打ち込んでみようと思います」
誰も予期しない爆弾発言だった。
友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。順調な仕事を放り出し、五〇男の関谷が、いったい何を始めるのか ──。 誰もが不思議がった。この人生でもう一つやってみたいこと。それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。
振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。豪邸とはいかないが、そこそこの住宅を建て、四階建ての粋な自社ビルも持てた。人間関係にも恵まれたほうだろう。
"これで充分さ。このうえ何がほしいんだ"
何度も自分に問いかけた。
当時の私は、互いのわがままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。
"気楽な独り暮らしじゃないか。金もあるし、ある程度の社会的地位もある。男なら、一度は夢見る生活だぞ。何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨てるんだ"
私の 「常識」 はそうささやいていた。
しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。妻や子供との別居さえ、そういう天のはからいではないのか。
二〇周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。
私は決して空想的な男ではない。地に足のついた生活をしてきたし、現実的な人間関係を何より大切にして生きてきた。だが心の底には、この現実を超える素晴らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。
顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。けれどご利益専門の宗教は、弱い人間の集まりとしか思えない。私が求めるものはそこにはなかった。
漠然とした思いが、〈幸福の科学〉 の創設に加わることで急にハッキリした形をとり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。
この年、八七年は 〈幸福の科学〉 の胎動期だった。
活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。委員に任命されたのは、前川節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、そして私の五人である。そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた六人が、大川主宰を囲んで会の方針を話し合った。〈幸福の科学〉 は次第に形を成していった。
お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部六人のうち、すでに四人が退めている。四人という数が多いか少ないか、私にはわからない。しかしホンモノの神理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去っていかなければならないのか。これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会員にするなど到底不可能だろう。不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。
この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。もちろん、会の活動に役立てるためである。講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍だった。
そのたびに私が運転した。人間とは面白いものだと、つくづく思う。何が人生を変えてしまうかわからない。このベンツが、私を全面的に 〈幸福の科学〉 へと走らせるきっかけの一つになったのである。
何を求めて私はあんなに走ったのだろう。
かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したときも、その夜の棟上の宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなかった。ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。
"これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃないぞ "
二〇〇〇人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった三人と言われていたのに。
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第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む
私はまだ 〈幸福の科学〉 に夢中というほどではなかった。
当時私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。一九六七年の三月三日に、ほとんど無一文でスタートしてから一九年。 一度の赤字もなく、順風満帆で伸びてきた会社である。二年前にはそれまでの借地を買い、四階建ての自社ビルも新築した。
「どうしたら、関谷さんみたいになれるかね」
仲間からはいつも羨ましがられていた。
ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだった。お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。
"次の三月三日は、二〇周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてやろう"
そう思ったとき、私の心はすでにーつの決意を秘めていた。
三月三日、二〇周年記念パーティの当日。青山ダイヤモンド・ホールで開いた祝賀会には二〇〇人もの人が集まった。その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。自動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然目も留めなかった。パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。二人がたたずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。
パーティーは愉快に楽しく進行した。琴とバイオリンの二重奏あり、木遺り歌あり。木遺り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入りもする盛り上がりだった。
最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。
「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。ところで、私にはこの人生でもう一つやってみたいことがあります。残りの人生は、それに打ち込んでみようと思います」
誰も予期しない爆弾発言だった。
友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。順調な仕事を放り出し、五〇男の関谷が、いったい何を始めるのか ──。 誰もが不思議がった。この人生でもう一つやってみたいこと。それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。
振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。豪邸とはいかないが、そこそこの住宅を建て、四階建ての粋な自社ビルも持てた。人間関係にも恵まれたほうだろう。
"これで充分さ。このうえ何がほしいんだ"
何度も自分に問いかけた。
当時の私は、互いのわがままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。
"気楽な独り暮らしじゃないか。金もあるし、ある程度の社会的地位もある。男なら、一度は夢見る生活だぞ。何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨てるんだ"
私の 「常識」 はそうささやいていた。
しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。妻や子供との別居さえ、そういう天のはからいではないのか。
二〇周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。
私は決して空想的な男ではない。地に足のついた生活をしてきたし、現実的な人間関係を何より大切にして生きてきた。だが心の底には、この現実を超える素晴らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。
顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。けれどご利益専門の宗教は、弱い人間の集まりとしか思えない。私が求めるものはそこにはなかった。
漠然とした思いが、〈幸福の科学〉 の創設に加わることで急にハッキリした形をとり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。
この年、八七年は 〈幸福の科学〉 の胎動期だった。
活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。委員に任命されたのは、前川節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、そして私の五人である。そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた六人が、大川主宰を囲んで会の方針を話し合った。〈幸福の科学〉 は次第に形を成していった。
お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部六人のうち、すでに四人が退めている。四人という数が多いか少ないか、私にはわからない。しかしホンモノの神理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去っていかなければならないのか。これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会員にするなど到底不可能だろう。不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。
この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。もちろん、会の活動に役立てるためである。講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍だった。
そのたびに私が運転した。人間とは面白いものだと、つくづく思う。何が人生を変えてしまうかわからない。このベンツが、私を全面的に 〈幸福の科学〉 へと走らせるきっかけの一つになったのである。
何を求めて私はあんなに走ったのだろう。
かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したときも、その夜の棟上の宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなかった。ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。
"これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃないぞ "
二〇〇〇人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった三人と言われていたのに。
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1-5 真摯だった発足記念講演会
2009/12/14 06:13 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
真摯だった発足記念講演会
かねての予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立二〇周年パーティーが終わって三日後、三月六日のことだった。その二日後には、 "幸福の科学発足記念講演会" が迫っていた。
ここで、大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。
すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊言集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。善川と、大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。
世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。だが、私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。
霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。
霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界! それで充分だった。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。
ところで、〈幸福の科学〉 に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは大川の父、中川忠義のペンネームである。 富山誠は兄の中川力にあたる。
理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりにも世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。
八七年九月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は、「幸福の科学」拝読者となっていた。
「大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに、『不思議だなぁ』 と思い、『人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか』 と思っていました。また、『大川隆法』 という人物と 『善川三朗』 そして 『富山誠』 のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それはほんとうだろうか」
疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。
「私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか」
さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。
会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。それで、二人の関係を劇的に、神秘的に創作してみた。たぶん、そんなところだろう。
話をもとへ戻そう。
中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。
純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を善かれるのか。それが、私にはひどく嬉しかった。さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。
"神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる"
そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。
私は大喜びで料理屋へ接待した。
"明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう"
楽しさで胸がワクワクしていた。

翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。しかし講演会当日の朝はカラリと晴れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。
雪に気をつけながらベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。そこで中原を拾い、大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。しかし、待っているはずの中原の姿がない。玄関のべルを押したが返答もない。待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。しかたなく、先に両先生を迎えに行った。
後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は、私が押したベルの音にも気づかず、まだぐっすりと寝ていたのである。
会場の牛込公会堂には、四〇〇人ほどの聴講者が入っていた。四〇〇人! 大成功ではないか。大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三朗の二本立てだった。しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなった。父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。その経緯に関して、私の知ることは後で書くことにしたい。
今、当日のプログラムをめくってみると ──
開会の挨拶…… 太田邦彦
講演「幸福の科学発足によせて」…… 善川三朗先生
講演「幸福の原理」…… 大川隆法先生
閉会の挨拶…… 前川節
司会…… 中原幸枝
会は滞りなく進んだ。大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。
いい講演会だった。広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に耳を傾けていた。子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだすなどということもなかった。
「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、あなたにはあれが見えましたか」
そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、当時はまだいなかった。
みんなが真摯に道を求めている。そういう引き締まった空気がピーンと支配していたのが、初期の講演会である。
この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。みんなが会の成功を喜び、次回はもっと盛りあげようと誓い合った。はじめて会から費用をいただいての会食でもあった。会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。
翌日は、また善川をホテルへ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。一昨日の雪がまだあちこちに残っていた。講演会の成功に善川はとても満足しているように見えた。
こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を三〇回ほど往復しただろうか。それは決してイヤな仕事ではなかった。 〈幸福の科学〉 の発足時に、こうして誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。
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第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
真摯だった発足記念講演会
かねての予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立二〇周年パーティーが終わって三日後、三月六日のことだった。その二日後には、 "幸福の科学発足記念講演会" が迫っていた。
ここで、大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。
すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊言集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。善川と、大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。
世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。だが、私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。
霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。
霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界! それで充分だった。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。
ところで、〈幸福の科学〉 に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは大川の父、中川忠義のペンネームである。 富山誠は兄の中川力にあたる。
理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりにも世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。
八七年九月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は、「幸福の科学」拝読者となっていた。
「大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに、『不思議だなぁ』 と思い、『人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか』 と思っていました。また、『大川隆法』 という人物と 『善川三朗』 そして 『富山誠』 のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それはほんとうだろうか」
疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。
「私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか」
さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。
会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。それで、二人の関係を劇的に、神秘的に創作してみた。たぶん、そんなところだろう。
話をもとへ戻そう。
中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。
純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を善かれるのか。それが、私にはひどく嬉しかった。さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。
"神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる"
そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。
私は大喜びで料理屋へ接待した。
"明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう"
楽しさで胸がワクワクしていた。

翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。しかし講演会当日の朝はカラリと晴れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。
雪に気をつけながらベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。そこで中原を拾い、大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。しかし、待っているはずの中原の姿がない。玄関のべルを押したが返答もない。待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。しかたなく、先に両先生を迎えに行った。
後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は、私が押したベルの音にも気づかず、まだぐっすりと寝ていたのである。
会場の牛込公会堂には、四〇〇人ほどの聴講者が入っていた。四〇〇人! 大成功ではないか。大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三朗の二本立てだった。しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなった。父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。その経緯に関して、私の知ることは後で書くことにしたい。
今、当日のプログラムをめくってみると ──
開会の挨拶…… 太田邦彦
講演「幸福の科学発足によせて」…… 善川三朗先生
講演「幸福の原理」…… 大川隆法先生
閉会の挨拶…… 前川節
司会…… 中原幸枝
会は滞りなく進んだ。大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。
いい講演会だった。広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に耳を傾けていた。子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだすなどということもなかった。
「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、あなたにはあれが見えましたか」
そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、当時はまだいなかった。
みんなが真摯に道を求めている。そういう引き締まった空気がピーンと支配していたのが、初期の講演会である。
この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。みんなが会の成功を喜び、次回はもっと盛りあげようと誓い合った。はじめて会から費用をいただいての会食でもあった。会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。
翌日は、また善川をホテルへ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。一昨日の雪がまだあちこちに残っていた。講演会の成功に善川はとても満足しているように見えた。
こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を三〇回ほど往復しただろうか。それは決してイヤな仕事ではなかった。 〈幸福の科学〉 の発足時に、こうして誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。
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1-6 〈幸福の科学〉に集う純真な求道心
2009/12/14 06:14 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
〈幸福の科学〉に集う純真な求道心
一九八七年(昭和六十二年)は、〈幸福の科学〉 が本格的活動を開始した年である。
この年は、牛込公会堂での第一回講演会をかわ切りに、講演会が確か五回、合宿による研修会が二回、ほかに上級、中級、初級セミナーが計画、実行された。四月からは会の月刊誌も発行されている。
中原幸枝はまさに八面六臂の大活躍だった。ヨガスタッフの山田篤、中村恵子(後に退会)、五十嵐真由美、安岡一男 (本年退会)などが、中原の手足となって献身的に働いた。会場の手配、会員への連絡、パンフレットや機関紙の編集・出版の作業に、喜々として取り組む彼らの姿は私にも気持ちのいいものであった。

しばらくすると、阿南浩行(後に退会)、高橋秀和、福本孝司(後に退会)、河本裕子といった初期の優等生たちが読者の中から現れた。
なかでも、阿南は二八歳という若さながら霊的に非常に覚醒していた。仏教やキリスト教など宗教全般に詳しく、大川の霊言集に関してはどんな角度からでも、理路整然と解説できた。理論では会員中随一だったろう。一部上場企業の社員だったが、上司が止めるのを振り切って退職し、会の活動をしてきた。
純粋な求道心を持つ中原とはウマがあったようだ。
大川は、この阿南を釈迦の十大弟子の一人、アーナンダ(阿難)の生まれ変わりであると宣言していた。釈迦が亡くなるまで二五年間にわたって師につかえ、最も多く教えを聞いていたことから、「多聞第一」 と呼ばれたのがアーナンダである。仏典結集に際しては、亡くなった師の代わりに教えを語って聞かせたとされている。
不思議なことに、阿南も霊言集の編集に携わっていた。テープに吹き込まれた霊言を文字にし、整理する仕事であるが、これは阿南と中原だけがタッチすることのできる最重要の仕事だった。
しかし、このアーナンダはある事件がきっかけで、間もなく 〈幸福の科学〉 を去った。もし大川と阿南が、大川主宰の言う通り、真の仏陀とアーナンダだったとしたら、どうして袂を分かつなどということがあっただろうか。この事件は、中原と私の心に深い傷を残した。いや、当時の会員すべてに、言いようのない衝撃を与え、大川主宰に対する疑念を生じさせたのである。
事件については、もう少し後に譲ろう。
阿南についてだけでなく、事あるごとに大川は "生まれ変わり" の話をした。私はといえば、中国の天台開祖・智顗の高弟の一人を、前世として大川から頂戴した。もっとも私には、そんなものはどうでもよかった。大切なのは現在である。
しかし後に、大川夫妻のあいだに誕生してくる子が、天台智顗の生まれ変わりだと聞かされたときは、前世話のご都合主義にさすがに首をかしげた。
阿南より少し遅れて、やはり本がきっかけで高橋秀和が参加してきた。実直で、とくに事務処理には大変たけていた。おかげで、会の仕事はテキパキと進んだ。会議録の整理、レジュメ、マニュアル作りをさせたら天下一品。ただ、あまりにも狂信的で、融通が利かず、頭の固いところがあった。
最も初期の仲間には、いなかったタイプの人物である。後日、阿南事件が起こると、阿南の電話をすべてメモし、主宰先生に逐一注進に及ぶという実直ぶりを示した。大川は、高橋を十大弟子の中でも筆頭格のマハーモンガラナー(大目蓮)と呼んでいた。
新しく参加した阿南や高橋が厚遇される一方で、発足記念講演会で開会の挨拶をした太田邦彦などは冷遇されていた。前世の話でも彼一人が除け者にされた感じだった。
「あなたはまだまだ霊格が低い。この人たちは後から来たけど、あなたよりずっと魂が大きいんだ」
大勢の前で大川が太田をやり込めたことがある。しかし今にして思えば、太田という人は、大川を神格化しようとする人たちと一線を画していたにすぎない。それが主宰先生には気にいらなかったのか。結局、太田は最も早い脱会者の一人になった。
こうした話を聞いて、ワンマン社長が牛耳る中小企業を連想する人がいても不思議はない。つまり、どこの集団にもある人間関係のさまざまなトラブルや軋轢が、ここにもあったということである。その意味では、現実世界を超越した集団でもなく、〈光の天使〉の集まりでもなかった。
それどころか現在の宗教団体は、ほかのどんな集団よりも、露骨に権力や金の問題が現れてくる、極めて世俗的な場所であると言ったほうが正しいだろう。
だが、ここでお話ししている最も初期の段階では、そうした問題もまだハッキリとは現れていなかった。専属の職員など一人もいなかったし、一般会員から区別されるような幹部も存在しない。言い換えれば、全員がボランティアだったのだ。
昼間は会で働き、夜はアルバイトする。そんな会員たちの情熱が会を支えていた。
誰もが新しい時代を予感しつつ、神理を学ぶことを第一の目的と考えていた。
八七年の五月、第一回の研修会が催された。琵琶湖湖畔のホテルでの三日間にわたる研修会には、一一〇名の参加者があった。
研修会は後に、講師を養成する場所となっていった。三日間は、講義とディスカッション、意見発表の連続だった。それは、素晴らしく、そして楽しかった。大川主宰や善川顧問に親しく接し、神理を学べることが嬉しくてならなかった。
もっと学ぼう、もっと学びとろう。参加者のそんな思いが最高潮に達したところへ、あの最終日がやってきた。
第一回研修会における大川隆法の最終講義は、〈幸福の科学〉 では、今日でも語りぐさになっている。『正心法語』の解説だったが、それは力強さと格調に満ちていて、私たちの心をワシづかみにした。高級神霊が語るとはまさにこれなのか。朗々と響く 大川の声に圧倒されながら、私はそう思った。
その時まで私たちはまだ比較的冷静で、大川を見る目もどちらかと言えば客観的だった。神様あつかいしたり、妄信していたわけではない。しかしあの講義は、私たちの心に何かの火を灯したのである。

私たちは魂を深く揺さぶられ、感動を通り越してほとんど呆然自失していた。
そのときの大川の言葉を引いてみても、私の筆力では、その感動の万分の一も伝えられないのがもどかしい。
「我々は一致団結し、霊性時代の新しい価値をつくり出さなければならない。ここに集まっているのは、そのために目覚めたエリートなのだ。いまだに物質欲や金銭欲に縛られているほかの人間とは違う。素晴らしい時代をつくっていく、光の天使である」
私たちは、天の進軍ラッパを聞いたのである。
"我々の手で新しい霊性の時代を樹立する! ここにいる一人ひとりが、みんな光の天使になって世の中を変えていくのだ!"
みんながそう考えた。勇気が体を満たし、希望に心が燃えあがるのを感じた。
CM(0)
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
〈幸福の科学〉に集う純真な求道心
一九八七年(昭和六十二年)は、〈幸福の科学〉 が本格的活動を開始した年である。
この年は、牛込公会堂での第一回講演会をかわ切りに、講演会が確か五回、合宿による研修会が二回、ほかに上級、中級、初級セミナーが計画、実行された。四月からは会の月刊誌も発行されている。
中原幸枝はまさに八面六臂の大活躍だった。ヨガスタッフの山田篤、中村恵子(後に退会)、五十嵐真由美、安岡一男 (本年退会)などが、中原の手足となって献身的に働いた。会場の手配、会員への連絡、パンフレットや機関紙の編集・出版の作業に、喜々として取り組む彼らの姿は私にも気持ちのいいものであった。

しばらくすると、阿南浩行(後に退会)、高橋秀和、福本孝司(後に退会)、河本裕子といった初期の優等生たちが読者の中から現れた。
なかでも、阿南は二八歳という若さながら霊的に非常に覚醒していた。仏教やキリスト教など宗教全般に詳しく、大川の霊言集に関してはどんな角度からでも、理路整然と解説できた。理論では会員中随一だったろう。一部上場企業の社員だったが、上司が止めるのを振り切って退職し、会の活動をしてきた。
純粋な求道心を持つ中原とはウマがあったようだ。
大川は、この阿南を釈迦の十大弟子の一人、アーナンダ(阿難)の生まれ変わりであると宣言していた。釈迦が亡くなるまで二五年間にわたって師につかえ、最も多く教えを聞いていたことから、「多聞第一」 と呼ばれたのがアーナンダである。仏典結集に際しては、亡くなった師の代わりに教えを語って聞かせたとされている。
不思議なことに、阿南も霊言集の編集に携わっていた。テープに吹き込まれた霊言を文字にし、整理する仕事であるが、これは阿南と中原だけがタッチすることのできる最重要の仕事だった。
しかし、このアーナンダはある事件がきっかけで、間もなく 〈幸福の科学〉 を去った。もし大川と阿南が、大川主宰の言う通り、真の仏陀とアーナンダだったとしたら、どうして袂を分かつなどということがあっただろうか。この事件は、中原と私の心に深い傷を残した。いや、当時の会員すべてに、言いようのない衝撃を与え、大川主宰に対する疑念を生じさせたのである。
事件については、もう少し後に譲ろう。
阿南についてだけでなく、事あるごとに大川は "生まれ変わり" の話をした。私はといえば、中国の天台開祖・智顗の高弟の一人を、前世として大川から頂戴した。もっとも私には、そんなものはどうでもよかった。大切なのは現在である。
しかし後に、大川夫妻のあいだに誕生してくる子が、天台智顗の生まれ変わりだと聞かされたときは、前世話のご都合主義にさすがに首をかしげた。
阿南より少し遅れて、やはり本がきっかけで高橋秀和が参加してきた。実直で、とくに事務処理には大変たけていた。おかげで、会の仕事はテキパキと進んだ。会議録の整理、レジュメ、マニュアル作りをさせたら天下一品。ただ、あまりにも狂信的で、融通が利かず、頭の固いところがあった。
最も初期の仲間には、いなかったタイプの人物である。後日、阿南事件が起こると、阿南の電話をすべてメモし、主宰先生に逐一注進に及ぶという実直ぶりを示した。大川は、高橋を十大弟子の中でも筆頭格のマハーモンガラナー(大目蓮)と呼んでいた。
新しく参加した阿南や高橋が厚遇される一方で、発足記念講演会で開会の挨拶をした太田邦彦などは冷遇されていた。前世の話でも彼一人が除け者にされた感じだった。
「あなたはまだまだ霊格が低い。この人たちは後から来たけど、あなたよりずっと魂が大きいんだ」
大勢の前で大川が太田をやり込めたことがある。しかし今にして思えば、太田という人は、大川を神格化しようとする人たちと一線を画していたにすぎない。それが主宰先生には気にいらなかったのか。結局、太田は最も早い脱会者の一人になった。
こうした話を聞いて、ワンマン社長が牛耳る中小企業を連想する人がいても不思議はない。つまり、どこの集団にもある人間関係のさまざまなトラブルや軋轢が、ここにもあったということである。その意味では、現実世界を超越した集団でもなく、〈光の天使〉の集まりでもなかった。
それどころか現在の宗教団体は、ほかのどんな集団よりも、露骨に権力や金の問題が現れてくる、極めて世俗的な場所であると言ったほうが正しいだろう。
だが、ここでお話ししている最も初期の段階では、そうした問題もまだハッキリとは現れていなかった。専属の職員など一人もいなかったし、一般会員から区別されるような幹部も存在しない。言い換えれば、全員がボランティアだったのだ。
昼間は会で働き、夜はアルバイトする。そんな会員たちの情熱が会を支えていた。
誰もが新しい時代を予感しつつ、神理を学ぶことを第一の目的と考えていた。
八七年の五月、第一回の研修会が催された。琵琶湖湖畔のホテルでの三日間にわたる研修会には、一一〇名の参加者があった。
研修会は後に、講師を養成する場所となっていった。三日間は、講義とディスカッション、意見発表の連続だった。それは、素晴らしく、そして楽しかった。大川主宰や善川顧問に親しく接し、神理を学べることが嬉しくてならなかった。
もっと学ぼう、もっと学びとろう。参加者のそんな思いが最高潮に達したところへ、あの最終日がやってきた。
第一回研修会における大川隆法の最終講義は、〈幸福の科学〉 では、今日でも語りぐさになっている。『正心法語』の解説だったが、それは力強さと格調に満ちていて、私たちの心をワシづかみにした。高級神霊が語るとはまさにこれなのか。朗々と響く 大川の声に圧倒されながら、私はそう思った。
その時まで私たちはまだ比較的冷静で、大川を見る目もどちらかと言えば客観的だった。神様あつかいしたり、妄信していたわけではない。しかしあの講義は、私たちの心に何かの火を灯したのである。

私たちは魂を深く揺さぶられ、感動を通り越してほとんど呆然自失していた。
そのときの大川の言葉を引いてみても、私の筆力では、その感動の万分の一も伝えられないのがもどかしい。
「我々は一致団結し、霊性時代の新しい価値をつくり出さなければならない。ここに集まっているのは、そのために目覚めたエリートなのだ。いまだに物質欲や金銭欲に縛られているほかの人間とは違う。素晴らしい時代をつくっていく、光の天使である」
私たちは、天の進軍ラッパを聞いたのである。
"我々の手で新しい霊性の時代を樹立する! ここにいる一人ひとりが、みんな光の天使になって世の中を変えていくのだ!"
みんながそう考えた。勇気が体を満たし、希望に心が燃えあがるのを感じた。
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2-1 〈幸福の科学〉にもあった神託結婚
2009/12/14 06:16 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第2章 「神」は結婚を命じ給うのか?
〈幸福の科学〉にもあった神託結婚
女優の桜田淳子や、スポーツタレントの山崎浩子らが参加し、マスコミの注目を浴びた統一教会(世界統一神霊教会)の合同結婚式。何千人もの男女が集まり、教祖の祝福を受けるあの式に、世間があんなに激しい反発を示したのはなぜだろう。愛情と尊敬で結ばれるべき生涯の伴侶が、教祖の指示一つで決められる。そこに不自然なもの、人間の尊厳を否定するものがあるのを、多くの人が感じたからに違いない。
統一教会のそれと似たものが、じつは 〈幸福の科学〉 にもあったと言えば、驚く人が多いだろう。新しい会員は 「まさか」 と思うかもしれない。しかし何組かの男女が、大川隆法の 「これは高級霊からの指示である」 という言葉によって、結婚させられたのは紛れもない事実である。
古参幹部を除くと、会員にもほとんど知られていない "神託結婚" の実態を、ここでお話ししてみたいと思う。
忘れもしない、一九八七年十二月のことである。
〈幸福の科学〉 の二年目にあたるその年は、非常に有意義な一年だった。後援会とセミナーが各地で開かれ、会員も増えた。前年の十月に中原の自宅を改築して開いた六畳の事務所がもう手狭になり、五月には荻窪松庵三丁目にある新築ビルの地下へ移転している。広さはそれまでの六倍。ボランティアの会員も、活躍の場所をやっと得て大喜びで働いていた。
ついでながら、移転に要した敷金五〇〇万円は中原に頼まれて私が用立てた。誤解のないよう言っておくと、この五〇〇万円は後に全額返済してもらっている。こういう面では、大川はきっちりケジメをつける人だった。

その年も終わりに近づいた十二月二十六日。
この日はちょうど、中原幸枝のヨガ教室主催による四週間瞑想セミナーの最終日にあたっていた。最後を飾るべく 中原は、特別講師に大川隆法を招いた。このことからも、初期の 〈幸福の科学〉 が中原のヨガ教室と半ば一体だったことがわかる。
「セミナーの終わりに、直接大川先生のご指導がいただけるみなさまは、ほんとうに幸せです。みなさまは、人生のクリスマス・プレゼントを今夜いただけるのです」 [写真56]
中原から開会の挨拶を促された私は、参加者を前にそんな話をした。人生のプレゼント。いま思い出すと忸怩たるものがある。
この夜は大川の誘導で、自分が金の仏像になり体から金色の光を放つところをイメージしたり、体から意識を抜いて拡大させる瞑想などをおこなったと記憶している。当時の〈幸福の科学〉は、中原の影響もあってか瞑想が大きなウェートを占めていた。
大川の講演中、彼女と私はいつものように特別席に並んで腰かけていた。その日にかぎって、中原が妙に私を意識しているらしいのが気になった。今までは、一度もそんなことはなかった。互いに異性を意識せず、兄と妹のように仲良くやってきた二人である。
"きょうの中原は少しヘンだな。何かあったのだろうか"
何があったかは、セミナー終了後に明らかになった。
「今日は私からちょっとお話がありますから、一緒に食事しましょう。吉祥寺に場所を 予約してあります」
セミナーが終わって、声をかけてきたのは大川だった。
「双葉」 という古い料亭へ案内された。大川と私、そして中原の三人である。部屋に通された私たちは、料理をいただきながら、今日のセミナーのできばえや、瞑想の反応状態について話し合った。そこまでは、いつもと何ら変わったものはなかった。
途中で、急に大川が話題を変えた。
「関谷さん、じつは私、結婚することにしたんです」
意外な話に、私はびっくりした。崩していた膝を思わず直してお祝いを言った。
「イヤ、それはそれは。ほんとうにおめでとうございます。会の流れからしても、今が一番いいときだと思います。これで、会もしっかり根をおろします。ほんとうに、よかった。でも、お相手は誰なんでしょう。私には見当もつきませんが」
「アハハ。誰だと思いますか」
私は一瞬、中原ではないのかと思った。彼女の名誉のために言っておかなくてはならないが、二人が特別な関係だったということではない。大川のまわりには、とにかく女っ気がなかった。結婚に対する憧れをしばしばほのめかした主宰先生だが、それらしき女性は見あたらない。縁談があるとも聞いていない。その場にいた中原を、とっさに思っただけのことである。
「関谷さんは、たぶん知りませんよ。あの方はボランティアですから」
返答に困っている私に、中原が助け船を出してくれた。
「じつは木村恭子さんという会員です。これは、神示が下っての神託結婚なのです」
名前を聞いても、私には顔も浮かばなかった。それより私には、"神託結婚" という耳慣れない言葉が異様に響いた。大川先生ほどの人になると、やはり結婚にも高級霊からの指導があるのか……。
「もうすぐ東大を卒業される、素晴らしく優秀なお嬢さんですよ」
それが現在、主宰夫人となっている大川恭子のことを聞いた最初である。
彼女の登場で、〈幸福の科学〉 はまた一つ大きな転機を迎えることになる。しかしそれが会を変貌させ、空虚なものにしていくことになろうとは、中原や私はもとより、大川自身も知らなかったことである。
だが、「双葉」 での話はこれだけでは終わらなかった。
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第2章 「神」は結婚を命じ給うのか?
〈幸福の科学〉にもあった神託結婚
女優の桜田淳子や、スポーツタレントの山崎浩子らが参加し、マスコミの注目を浴びた統一教会(世界統一神霊教会)の合同結婚式。何千人もの男女が集まり、教祖の祝福を受けるあの式に、世間があんなに激しい反発を示したのはなぜだろう。愛情と尊敬で結ばれるべき生涯の伴侶が、教祖の指示一つで決められる。そこに不自然なもの、人間の尊厳を否定するものがあるのを、多くの人が感じたからに違いない。
統一教会のそれと似たものが、じつは 〈幸福の科学〉 にもあったと言えば、驚く人が多いだろう。新しい会員は 「まさか」 と思うかもしれない。しかし何組かの男女が、大川隆法の 「これは高級霊からの指示である」 という言葉によって、結婚させられたのは紛れもない事実である。
古参幹部を除くと、会員にもほとんど知られていない "神託結婚" の実態を、ここでお話ししてみたいと思う。
忘れもしない、一九八七年十二月のことである。
〈幸福の科学〉 の二年目にあたるその年は、非常に有意義な一年だった。後援会とセミナーが各地で開かれ、会員も増えた。前年の十月に中原の自宅を改築して開いた六畳の事務所がもう手狭になり、五月には荻窪松庵三丁目にある新築ビルの地下へ移転している。広さはそれまでの六倍。ボランティアの会員も、活躍の場所をやっと得て大喜びで働いていた。
ついでながら、移転に要した敷金五〇〇万円は中原に頼まれて私が用立てた。誤解のないよう言っておくと、この五〇〇万円は後に全額返済してもらっている。こういう面では、大川はきっちりケジメをつける人だった。

その年も終わりに近づいた十二月二十六日。
この日はちょうど、中原幸枝のヨガ教室主催による四週間瞑想セミナーの最終日にあたっていた。最後を飾るべく 中原は、特別講師に大川隆法を招いた。このことからも、初期の 〈幸福の科学〉 が中原のヨガ教室と半ば一体だったことがわかる。
「セミナーの終わりに、直接大川先生のご指導がいただけるみなさまは、ほんとうに幸せです。みなさまは、人生のクリスマス・プレゼントを今夜いただけるのです」 [写真56]
中原から開会の挨拶を促された私は、参加者を前にそんな話をした。人生のプレゼント。いま思い出すと忸怩たるものがある。
この夜は大川の誘導で、自分が金の仏像になり体から金色の光を放つところをイメージしたり、体から意識を抜いて拡大させる瞑想などをおこなったと記憶している。当時の〈幸福の科学〉は、中原の影響もあってか瞑想が大きなウェートを占めていた。
大川の講演中、彼女と私はいつものように特別席に並んで腰かけていた。その日にかぎって、中原が妙に私を意識しているらしいのが気になった。今までは、一度もそんなことはなかった。互いに異性を意識せず、兄と妹のように仲良くやってきた二人である。
"きょうの中原は少しヘンだな。何かあったのだろうか"
何があったかは、セミナー終了後に明らかになった。
「今日は私からちょっとお話がありますから、一緒に食事しましょう。吉祥寺に場所を 予約してあります」
セミナーが終わって、声をかけてきたのは大川だった。
「双葉」 という古い料亭へ案内された。大川と私、そして中原の三人である。部屋に通された私たちは、料理をいただきながら、今日のセミナーのできばえや、瞑想の反応状態について話し合った。そこまでは、いつもと何ら変わったものはなかった。
途中で、急に大川が話題を変えた。
「関谷さん、じつは私、結婚することにしたんです」
意外な話に、私はびっくりした。崩していた膝を思わず直してお祝いを言った。
「イヤ、それはそれは。ほんとうにおめでとうございます。会の流れからしても、今が一番いいときだと思います。これで、会もしっかり根をおろします。ほんとうに、よかった。でも、お相手は誰なんでしょう。私には見当もつきませんが」
「アハハ。誰だと思いますか」
私は一瞬、中原ではないのかと思った。彼女の名誉のために言っておかなくてはならないが、二人が特別な関係だったということではない。大川のまわりには、とにかく女っ気がなかった。結婚に対する憧れをしばしばほのめかした主宰先生だが、それらしき女性は見あたらない。縁談があるとも聞いていない。その場にいた中原を、とっさに思っただけのことである。
「関谷さんは、たぶん知りませんよ。あの方はボランティアですから」
返答に困っている私に、中原が助け船を出してくれた。
「じつは木村恭子さんという会員です。これは、神示が下っての神託結婚なのです」
名前を聞いても、私には顔も浮かばなかった。それより私には、"神託結婚" という耳慣れない言葉が異様に響いた。大川先生ほどの人になると、やはり結婚にも高級霊からの指導があるのか……。
「もうすぐ東大を卒業される、素晴らしく優秀なお嬢さんですよ」
それが現在、主宰夫人となっている大川恭子のことを聞いた最初である。
彼女の登場で、〈幸福の科学〉 はまた一つ大きな転機を迎えることになる。しかしそれが会を変貌させ、空虚なものにしていくことになろうとは、中原や私はもとより、大川自身も知らなかったことである。
だが、「双葉」 での話はこれだけでは終わらなかった。
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2-2 天上界が計画した? 二つの結婚
2009/12/14 06:17 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第2章 「神」は結婚を命じ給うのか?
天上界が計画した? 二つの結婚
「それでこの際、関谷さんにも結婚していただくことになりました」
まるで事務処理を指示するような調子で、大川隆法が言った。
思わず自分の耳を疑った。大川が結婚するのはいい。相手が誰でも、先生と呼ぶ人の結婚を、私は心から祝福するだろう。しかし、なぜ私が……。妻と五年間も別居しているとはいえ、まだ夫婦である。その私に結婚せよという大川の言葉は冗談としか思えなかった。
不思議なことに、大川とあれほど身近に接していながら、大川との個人的な会話はあまり私の記憶に残っていない。人の心に感動を呼び起こすもの、鮮烈な印象を残すものが少なかったように思う。しかし、このときの話はさすがに今でもハッキリと覚えている。記憶に従って、できるだけ忠実に再現してみよう。
「先生、何をおっしゃいます。第一、私には相手がいませんし、そんな段階ではありません」
「いや、それがちゃんと決まったんです。天上界の(高橋)信次先生からの通信です。これはもう、明日入籍していただきます。お正月には新婚旅行に行っていただくことになっています」
「ハハハ……。なんだ、冗談ですか。先生も悪趣味ですね。でも、先生が結婚されるのははんとうでしょうね」
「とんでもない。これは神託結婚です。天上界の計画通りにしていただきます」
言うべき言葉が見つからなかった。
「関谷さんのお相手は、もう決まっているんです」
「どんなふうに決定しているんですか。どこにそんな人がいるんですか」
「はい、ここにいますよ。ほら!」
大川のこの声を待っていたように、中原幸枝がパッと畳に手をついた。
「関谷さん、よろしくお願いします」
「エッ! アレ! …… そ、そりゃぁない……」
このように書けば、一場の喜劇でしかない。ドタバタ喜劇のおかしさは、人間の尊厳というものを踏みにじるところに生まれる。だからピエロたちの演技はどこか悲しい。
「よろしくお願いします」 と手をついた中原の心中はどうだったろう。世俗的な幸せを捨て、ひたすら道を求めてきた中原の生き方は、このとき完膚なきまでに踏みにじられたのではなかったか。彼女はどんな気持ちで、私に手をついたのだろう。その気持ちを、私はいまだに聞きえずにいる。
しかし大川に心酔していた中原は、私との結婚について、一分の疑念も持っていないようだった。
大川は私の説得にかかった。思いどおり事が運ばないときは、相手を押さえつけるような、威圧的な口調になるのが彼の流儀だった。
「関谷さんは二度目の結婚になります。あまり自分勝手は許されません。それに中原さんは、過去に何度も転生しながら、一度も結婚したことがない。今回始めて神示により、関谷さんと結婚することになりました」
「……」
「私たちは何度生まれ変わっても、今ほど重大な時代に生まれることはできません。神のご意志に従ってください。私たちはみんな、自分の使命を果たさなければなりません」
神の意志、使命。それを言われると、私には抗弁のしようがなかった。
「この幸福の科学は、今、そのための基礎造りの段階です。私も神のご意志に従って、よく知らない人と結婚します。この際、関谷さんも己を捨てて、会の土台造りに身をあずけていただけませんか。……それとも、中原さんではダメですか。中原さんは昨日一秒でO・Kを出したんですョ」
私はそういう目で中原を見たことはなかったが、一般的な見方をすれば、彼女はたぶんとても品のある美人である。妹のような存在としか思ったことはないけれど、どうして中原でダメなことがあるだろう。
"だが" と私は思った。 "精神世界の探究に身を捧げている尼さんのような彼女が、本気で私などを受け入れるはずがない"
そう思って中原を見ると、彼女はこちらを向いて正座し、両手を膝に置いたまま私の返事を待っている。その表情には何の不安もなく、私から 「OK」 の返事が当然くるものと確信しているらしい。
このとき、私の脳裏に走ったのは、セックスなき不自然なカップルだった。私を含めて男とセックスなどできる中原とは、到底思えなかった。としたら、聖職者同士の夫婦生活である。この私にそんな生活が可能だろうか。まだ残している問題もあるし……。さまざまな思いがわいてきて、頭が混乱してしまった。
"ええい、ままよ。人生は所詮ドラマじゃないか" と、私は心の中でつぶやいた。"天上界の信次先生のご指示だというなら、それもよし。私もそろそろ、そんな禁欲生活に入っていい頃かもしれない。そのために、今までの恵まれた生活があったんだろう"
もう一度中原に目をやった。即座の返事を求めるように真っ直ぐに私を見ている。
「よろしく、お願いします」
ひとりでに口から出ていた。中原と私は、両手をついて頭を下げあった。
それを受けて大川がしゃべった言葉を、私は今もハッキリ思い出すことができる。
「よかった。何しろ、神理を説くトップの私だけの結婚となると、会員からいろんなことを言われそうで、困っていたんですよ。しかし、中原さんと関谷さんが結婚するとなれば、意外性ということで話題になり、私のほうの話は半減されて助かります」
いまなら、中原と私の結婚を煙幕にするつもりなのかと言うこともできる。だが、そのときは "おかしなことを言うな" と感じただけだった。それも、心の片隅で。
統一教会の合同結婚式の後、親族やキリスト教関係者に説得されて結婚を破棄した山崎浩子が、記者会見で 「マインド・コントロール」 という言葉を使った。
宗教団体という特殊な世界にいると、正常な判断力が麻痺する。神との仲介者である教祖が、信者の心をいとも簡単に支配してしまう。そんな状態を 「マインド・コントロール」と、彼女は呼んだのだろう。
しかし支配される心は、支配されることを望んでいるのである。自分のすべてを理解し、行くべき道を指し示してくれる存在を心の底で求めている。中原や私にも、その思いがなかったとは言えない。
「お互いの仲人をやりませんか。それで、どちらも貸し借りなしのオアイコということにしましょう」
私の都合などまるで無視して、嬉しそうに大川が言った。
しかし、私にはまだ妻がいる。離婚は話し合いがついていたが、高校生の娘が大学受験を終えるまでは、籍だけでもこのままにしておこうという話になっていた。いまではそれが、身勝手な父親である私が娘にしてやれるたった一つのことだった。
このことを話すと、大川は驚いた顔をした。
「エッ、まだ籍が抜けてなかったんですか。それは知らなかった」
いつも、私たちのすべてを見通しているようなことを言っている大川が、こんな重大なことを見落としていたとは。
「あと二ヵ月で娘の入試が終わります。それまで、このままではいけませんか」
「いや。私のことも、もう発表してしまわなければならないし、それは困るよ。何とかなるでしょう、関谷さん」
いまや、大川と私は師弟の関係にある。まして、その師は天上の世界から直接指導されているのだ。人間の浅知恵では計り知れない大計画が、こうして一歩ずつ実現されようとしているのかもしれない、と私は考えた。私もまた、「マインド・コントロール」によって正常な判断力を失っていたのである。
その場は、「すぐにでも妻と話し合ってみます」 ということでお開きになった。
家に帰っても心が落ちつかなかった。独り暮らしのマンションで、何時間も自問自答を繰り返した。
まず、大川主宰がご自分の結婚の話題を半減させたいという、その心理はいったい何だろうと考えた。
"そういえば、若い女性とのデートすら、先生は一度も経験したことがないと聞いたことがある。そんなことからくる、先生特有のテレなのだろうか"
"それにしても、私と妻との現状を、まったく霊視できなかったのだろうか。この結婚は、中原と私の一生を左右する重大事である。すべてを見通したうえでのお話しではなかったのか″
"もしかしたら大川先生は、じつは異次元など何も見えない、頭のいいだけの人間なのだろうか。自分の都合だけを優先させ、他を思いやる愛のない人なのだろうか"
そうした考えに行き着くたびに、私は何度も首を振った。
"いや、いや。そんなことは絶対にない"
この夜、私の頭は混乱し、ハッキリした結論はついに見出せなかった。
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第2章 「神」は結婚を命じ給うのか?
天上界が計画した? 二つの結婚
「それでこの際、関谷さんにも結婚していただくことになりました」
まるで事務処理を指示するような調子で、大川隆法が言った。
思わず自分の耳を疑った。大川が結婚するのはいい。相手が誰でも、先生と呼ぶ人の結婚を、私は心から祝福するだろう。しかし、なぜ私が……。妻と五年間も別居しているとはいえ、まだ夫婦である。その私に結婚せよという大川の言葉は冗談としか思えなかった。
不思議なことに、大川とあれほど身近に接していながら、大川との個人的な会話はあまり私の記憶に残っていない。人の心に感動を呼び起こすもの、鮮烈な印象を残すものが少なかったように思う。しかし、このときの話はさすがに今でもハッキリと覚えている。記憶に従って、できるだけ忠実に再現してみよう。
「先生、何をおっしゃいます。第一、私には相手がいませんし、そんな段階ではありません」
「いや、それがちゃんと決まったんです。天上界の(高橋)信次先生からの通信です。これはもう、明日入籍していただきます。お正月には新婚旅行に行っていただくことになっています」
「ハハハ……。なんだ、冗談ですか。先生も悪趣味ですね。でも、先生が結婚されるのははんとうでしょうね」
「とんでもない。これは神託結婚です。天上界の計画通りにしていただきます」
言うべき言葉が見つからなかった。
「関谷さんのお相手は、もう決まっているんです」
「どんなふうに決定しているんですか。どこにそんな人がいるんですか」
「はい、ここにいますよ。ほら!」
大川のこの声を待っていたように、中原幸枝がパッと畳に手をついた。
「関谷さん、よろしくお願いします」
「エッ! アレ! …… そ、そりゃぁない……」
このように書けば、一場の喜劇でしかない。ドタバタ喜劇のおかしさは、人間の尊厳というものを踏みにじるところに生まれる。だからピエロたちの演技はどこか悲しい。
「よろしくお願いします」 と手をついた中原の心中はどうだったろう。世俗的な幸せを捨て、ひたすら道を求めてきた中原の生き方は、このとき完膚なきまでに踏みにじられたのではなかったか。彼女はどんな気持ちで、私に手をついたのだろう。その気持ちを、私はいまだに聞きえずにいる。
しかし大川に心酔していた中原は、私との結婚について、一分の疑念も持っていないようだった。
大川は私の説得にかかった。思いどおり事が運ばないときは、相手を押さえつけるような、威圧的な口調になるのが彼の流儀だった。
「関谷さんは二度目の結婚になります。あまり自分勝手は許されません。それに中原さんは、過去に何度も転生しながら、一度も結婚したことがない。今回始めて神示により、関谷さんと結婚することになりました」
「……」
「私たちは何度生まれ変わっても、今ほど重大な時代に生まれることはできません。神のご意志に従ってください。私たちはみんな、自分の使命を果たさなければなりません」
神の意志、使命。それを言われると、私には抗弁のしようがなかった。
「この幸福の科学は、今、そのための基礎造りの段階です。私も神のご意志に従って、よく知らない人と結婚します。この際、関谷さんも己を捨てて、会の土台造りに身をあずけていただけませんか。……それとも、中原さんではダメですか。中原さんは昨日一秒でO・Kを出したんですョ」
私はそういう目で中原を見たことはなかったが、一般的な見方をすれば、彼女はたぶんとても品のある美人である。妹のような存在としか思ったことはないけれど、どうして中原でダメなことがあるだろう。
"だが" と私は思った。 "精神世界の探究に身を捧げている尼さんのような彼女が、本気で私などを受け入れるはずがない"
そう思って中原を見ると、彼女はこちらを向いて正座し、両手を膝に置いたまま私の返事を待っている。その表情には何の不安もなく、私から 「OK」 の返事が当然くるものと確信しているらしい。
このとき、私の脳裏に走ったのは、セックスなき不自然なカップルだった。私を含めて男とセックスなどできる中原とは、到底思えなかった。としたら、聖職者同士の夫婦生活である。この私にそんな生活が可能だろうか。まだ残している問題もあるし……。さまざまな思いがわいてきて、頭が混乱してしまった。
"ええい、ままよ。人生は所詮ドラマじゃないか" と、私は心の中でつぶやいた。"天上界の信次先生のご指示だというなら、それもよし。私もそろそろ、そんな禁欲生活に入っていい頃かもしれない。そのために、今までの恵まれた生活があったんだろう"
もう一度中原に目をやった。即座の返事を求めるように真っ直ぐに私を見ている。
「よろしく、お願いします」
ひとりでに口から出ていた。中原と私は、両手をついて頭を下げあった。
それを受けて大川がしゃべった言葉を、私は今もハッキリ思い出すことができる。
「よかった。何しろ、神理を説くトップの私だけの結婚となると、会員からいろんなことを言われそうで、困っていたんですよ。しかし、中原さんと関谷さんが結婚するとなれば、意外性ということで話題になり、私のほうの話は半減されて助かります」
いまなら、中原と私の結婚を煙幕にするつもりなのかと言うこともできる。だが、そのときは "おかしなことを言うな" と感じただけだった。それも、心の片隅で。
統一教会の合同結婚式の後、親族やキリスト教関係者に説得されて結婚を破棄した山崎浩子が、記者会見で 「マインド・コントロール」 という言葉を使った。
宗教団体という特殊な世界にいると、正常な判断力が麻痺する。神との仲介者である教祖が、信者の心をいとも簡単に支配してしまう。そんな状態を 「マインド・コントロール」と、彼女は呼んだのだろう。
しかし支配される心は、支配されることを望んでいるのである。自分のすべてを理解し、行くべき道を指し示してくれる存在を心の底で求めている。中原や私にも、その思いがなかったとは言えない。
「お互いの仲人をやりませんか。それで、どちらも貸し借りなしのオアイコということにしましょう」
私の都合などまるで無視して、嬉しそうに大川が言った。
しかし、私にはまだ妻がいる。離婚は話し合いがついていたが、高校生の娘が大学受験を終えるまでは、籍だけでもこのままにしておこうという話になっていた。いまではそれが、身勝手な父親である私が娘にしてやれるたった一つのことだった。
このことを話すと、大川は驚いた顔をした。
「エッ、まだ籍が抜けてなかったんですか。それは知らなかった」
いつも、私たちのすべてを見通しているようなことを言っている大川が、こんな重大なことを見落としていたとは。
「あと二ヵ月で娘の入試が終わります。それまで、このままではいけませんか」
「いや。私のことも、もう発表してしまわなければならないし、それは困るよ。何とかなるでしょう、関谷さん」
いまや、大川と私は師弟の関係にある。まして、その師は天上の世界から直接指導されているのだ。人間の浅知恵では計り知れない大計画が、こうして一歩ずつ実現されようとしているのかもしれない、と私は考えた。私もまた、「マインド・コントロール」によって正常な判断力を失っていたのである。
その場は、「すぐにでも妻と話し合ってみます」 ということでお開きになった。
家に帰っても心が落ちつかなかった。独り暮らしのマンションで、何時間も自問自答を繰り返した。
まず、大川主宰がご自分の結婚の話題を半減させたいという、その心理はいったい何だろうと考えた。
"そういえば、若い女性とのデートすら、先生は一度も経験したことがないと聞いたことがある。そんなことからくる、先生特有のテレなのだろうか"
"それにしても、私と妻との現状を、まったく霊視できなかったのだろうか。この結婚は、中原と私の一生を左右する重大事である。すべてを見通したうえでのお話しではなかったのか″
"もしかしたら大川先生は、じつは異次元など何も見えない、頭のいいだけの人間なのだろうか。自分の都合だけを優先させ、他を思いやる愛のない人なのだろうか"
そうした考えに行き着くたびに、私は何度も首を振った。
"いや、いや。そんなことは絶対にない"
この夜、私の頭は混乱し、ハッキリした結論はついに見出せなかった。
CM(0)